大学2年生の春、るいネットに出会った。
当時、授業・アルバイト等でそれなりに忙しかったし楽しかったのだが、どこか「物足りなさ」を覚えていた。
いくつかの集団をかけもちする毎日。
それは、ぶつ切りのちっぽけな充足しか味わえない日常であった。
大学の友人とは、一定時間「授業」という課題を共有するが、
授業が終わると各々、バイトやサークルなどに直行する。
アルバイト先の友人とは、「仕事」という課題を共有し、
社会との接点があるという点で大学の授業よりは充足感があったが、
それも限られた世界の一瞬の出来事にすぎなかった。
サークルも旅行も、恋愛や遊びも同じ。どこか充たされない。
そんな私は、毎日家に帰るとパソコンを開き、るいネットを読んでいた。
そこからは、「みんな」「社会」が感じられたし、新認識に触れることができた。
読んでいるだけで充足した。
るいネットを読んでいると、あっという間に時間が経ち、
心地よい疲れと充足感に包まれながら安眠することができる。
現実社会を生きる私にとって、唯一、
現実に役に立つ認識を吸収できる「場」であったし、
対面ではないのだが、「共認充足」を得られる場であった。
>例えどんな仮説であっても、皆の知っている限りの知識に照らし合わせて論理整合していれば、私はその仮説をいったん事実として認めます。
もちろん、いったん認めた事実に反する現象事実が出てくれば、皆さんと共に速やかにその現象事実を組み込んで論理=構造事実を組み替えてゆきます。
この様にして、(自由・個人・人権etcの固定観念を捨てて自在に思考することさえできれば、)事実の認識体系は無限に進化してゆくことができる筈だと考えています。(967)
事実の認識体系は無限に進化してゆく。
そういう意味で、るいネット上には「みんな期待」がたくさん存在する。
誰かが提示した仮説に対しての意見(「なるほど!」とか「少し違う気がする…」)を、自己完結してしまってはいけない。
真っ当な評価が下されないと、誤魔化しが通用してしまい、
「徹底した事実の追求」が不可能になってしまうから。
今や、誰もが行き詰った社会に不安を感じ、
どうにかしてほしい=「答え」がほしい、と思っている。
ひたすら投稿を読むことで「参加」していた私も、
目に見えない「みんな期待」を感じ取ったのだろう。
みんなの期待を無視してはいけない・・・
漠然とそう思い始め、「私も投稿しよう!」と思った。
「発信すること=みんなの期待に応えるということ」
>素人の探求過程での潜在思念(⇒とその表出)のやりとりこそ、
創造の漁場(狩場)であり、その場こそがるいネット(の会議室)である。(7673)
投稿を読むことも、投稿を書くことも、みんなの期待に応えること。
「みんなどうなん?」
「何か可能性を感じる」
そう思ってるいネットを読んでいるだけの人は、たくさんいる筈。
>ネットは人類に与えられた新しい“まつり”の場であり、人類最大の共認充足の場となるべきものなのである。(9561)
るいネットは、誰かの独論を公表している場ではなく、
みんなで認識を紡ぎ出す場。
ぶつぎりの充足なんかじゃなく、ここには本物の共認充足がある。
「答え」とは、誰かが与えてくれるものではなく、
自分自身も含め、皆で形成してゆくもの。
>●実現の時代、現実を対象化する為には、現実の真っ只中に居なければならない。
現実の真っ只中に居る者、それこそが素人であり、従って、素人こそ真の創造者である。(7673)
「答えがほしい」
「みんなと繋がりたい」
そんな思いでるいネットに参加し始めてから数年が経過した現在。
大した知識はないけれど、実感だけでも投稿することが、
認識形成に参加することであるということが分かってきた。
誰かに期待する「傍観者」ではなく、
自分自身も「当事者」となり得ているということが…。
また、るいネットでの皆とのやりとりを通じて、
可能性を提示することもできるようになる気がする。
現実社会を生きている皆で可能性を提示し合い、皆で評価し合い、
先端可能性に収束する。
そうやって、素人の手によって、社会は統合されるのだ! |
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